ヤクルト優勝

今年は9月末頃からプロ野球セリーグの優勝争いを一喜一憂しながら注目していた。日々の仕事では時々、熱心な日ハムファンの患者さんと『今年のハムはダメだったね』と話を合わせながら、内心「いいぞー」と思いながらヤクルト優勝を期待していた。ついにセリーグ優勝し、CSでも憎き巨人に圧勝。日本シリーズも球史に残る名勝負の末、20年ぶりに日本一になり本当に嬉しい!人は何故、○○チームのファンになるのだろう?オリンピックで日本を応援すると同じ理屈で札幌人はハムのファンになるのが自然かもしれない。私も日ハムが勝てば嬉しいけれど、意外と楽天、ロッテが好きで少し天邪鬼。自分のプロ野球ファン歴を振り返ってみる。元々は昭和33年頃、南海ホークスの杉浦忠投手がアンダースローで投げていたのがかっこ良いと思ったのがプロ野球に興味を持った最初。その時の捕手が野村克也選手で、彼のその後の活躍を新聞スポーツ欄、TVスポーツニュースなどで注目していた。北海道育ちなので周りは巨人ファンばかりだったが自分はパリーグ、南海ホークスファンだった。途中からはホークスファンというより野村克也のファンだった。野村選手は昭和52年(1977)、南海の監督を解任されロッテに1年、昭和53年に西武ライオンズに移籍、昭和55年(1980)に現役を引退している。野村引退後、自分は南海ホークスの応援はしなくなっていた。その頃、ヤクルトが1978年、広岡達朗監督の下、球団創設初のセリーグ優勝、阪急との日本シリーズでも勝利した。当時のヤクルトでは道産子の若松勉選手が活躍していて、彼がいるヤクルトが好きなチームだった。広岡はヤクルトの後に西武の監督になり、後のライオンズ黄金時代を造るに至る。広岡も野村もアンチ巨人だと思うが、アンチ巨人の私は野村克也が最後に所属し、広岡が監督になり強くなりつつあった西武のファンになった。1986年に清原が入団した頃は秋山幸二とのAK砲が売りの西武ファンであり、セリーグはBクラスに留まるヤクルトを応援しながら暫く野村さんの野球解説を楽しんでいた。野村さんは1989年(平成元年)10月ヤクルトスワローズの監督に就任。この時のスポーツ新聞で、野村さんに持病の大動脈瘤あり就任見送りか?の記事に一瞬がっかりしたのを記憶している。期待通りヤクルト野村監督が誕生。1990年以降、私はブレることなくヤクルトファンに落ち着いた。円山球場では右翼守備にいた背番号41の稲葉の姿が印象に残っている。札幌遠征時宿舎のニューオータニ(現・オータニイン)に子供と一緒に行って、当時小学生だった娘がホージーと並んで写真を撮ったこともある。野村監督の下でヤクルトは強くなり色々な人材を輩出した。野村さんはヤクルト退任後に阪神、楽天での監督も務めたがヤクルト時代の弟子の活躍は凄い。今回の日本シリーズ優勝の高津臣吾監督、伊藤智仁投手コーチが現役時代に活躍した姿をはっきりと覚えている。今のヤクルトの選手はまるで高校球児のように元気が良く金持ちジャイアンツの選手とは違う。過去の成績を見るとヤクルトは優勝した翌年に高い確率でBクラスになっている。来シーズン、優勝はしなくても故障者を出さずに良い勝負をすることを期待する。たかがプロ野球だがファンチームが勝つと気分が良い。阪神で野村さんの指導受けた新庄BigBossの日ハムがどのくらい変わるかも楽しみにしよう。  2021.12.23

カテゴリー: 未分類 パーマリンク